手洗いが大好きなこの小さな詩人は、知人が勤める保育園に通っている男の子だ。その男の子の周りには、保育園の日課とよりそうように、小さな物語が綴られていく。
この前も、ゆで卵を剥いて中から顔を出した卵の黄身を見て「お日さまが生まれた。」と嬉しそうに話していたそうだ。
この小さな詩人のように、
私たちがアートキャンプで紹介する作家たちは、この世界を、私たちとは少し違った視点から体験しているのだと思うことがある。彼らが表現しているのは、私たちと無関係な特別な世界ではない。私たちが見過ごしてきた些細な出来事や、どこにでもあるような物がズームアップされて、特別な意味や名前が与えられている世界なのだ。
たとえば私がバスを利用する時、だれがこのバスを運転しているのかってことは、たいてい意識の対象から外れている。乗車して、運転席の横を通過するわずかな時間の中で、意識は運転手さんをバスの装置の一部みたいに感じている。
しかし、バスを描き続けている狩俣明宏さんにとって大切なのは、バスの車体だけでなく、だれがバスの運転をしているのかであり、運転手の名前、声、身につけているものが全てなのだ。
狩俣さんによって、無名の運転手さんたちがスポットライトを浴びて狩俣さんの作品として、私たちの目の前に立ちあがる。
狩俣さんによって、無名の運転手さんたちがスポットライトを浴びて狩俣さんの作品として、私たちの目の前に立ちあがる。
私たちはアートキャンプの芸術家たちと同じように、この世界を体験することはできない。でも冒頭の保育園の話のなかで、子どもの発見や想像の世界に共感することができた保育士のように、芸術家から発せられたことばや描かれた絵の世界に共振する自らの心の変化を体験することはできる。
アートキャンプの作家たちの作品に向かい、その世界に入っていく時、彼らの作品をいわばのぞき穴のようにして、見慣れた世界を新しい視点で体感する幸運な瞬間に立ち会うことができる。
これこそがアートキャンプの作品の醍醐味なのだと思う。
これこそがアートキャンプの作品の醍醐味なのだと思う。